LOGIN話し始めた女を、百合絵が制する。
「ちょっと!! 余計なこと言わないで!」
その言葉を直之は聞き逃さなかった。
「余計なことって?」
「……!」
「何が余計なんだ?」
「それは……」
「事実を言われると困るから止めているのか?」
「ちがうわ!」
百合絵の額に汗が滲む。
「だったら、女に言わせればいい。彼女も本当のことを言いたいから発言してくれたんだろう」
俯いた女を直之が見た。「続けて」
女に視線が集まる。彼女は震えながら話し出す。
「わ、私は……百合絵さんに、瑠理子さんを押さえろって……頼まれました」
「嘘よ!!」
「嘘じゃない」
「あなたが勝手にやったんでしょう!」
「ブレスレットをくれるって言
直之という婚約者がいるのだ。 淳を選ぶ未来は、もう二度と訪れることはない―― そう思った途端、胸の奥がずきりと痛んだ。「……わかったわ」 瑠理子は小さく答えた。淳がこちらを見る。「なにがです?」「近づかないでって言ったでしょう」「……はい」「だから、わかったって言ったの」 なるべく平静な声を出したつもりだった。 でも、自分でも分かるくらい、落胆した声になった。淳も何かを感じ取ったのか、すぐには返事をしなかった。 雨だけが傘を叩いている。「……別に」「え?」「そんな顔してまで、離れなくてもいいです」「どんな顔よ」「今にも泣きそうな顔」「してないわ」「してます」「してません」「……していますよ」 淳が苦笑した。その表情が、少しだけ優しい。「俺も、言い方が悪かったです」「じゃあ撤回する?」「それは……」「しないのね」 瑠理子は少し拗ねるように視線を逸らした。 淳は困ったように眉を寄せる。「だって、お嬢様は御堂さんと婚約するんでしょう」「そうよ」「だったら俺とこんなふうに歩いてたら、御堂さんは嫌に思うじゃないですか」「……そうかもしれないわ。でも」 瑠理子は足を止めた。淳も立ち止まる。「今くらいはいいでしょう」「え?」「ただ一緒に帰ってるだけだもの。それまで駄目って言われたら、私」 言いかけて口を閉ざした。「何です?」「なんで
仕事を終えて会社を出ると、外は雨だった。「あ……」 瑠理子は軒下で立ち止まった。「傘、持ってない」「天気予報見てないんですか?」 隣から淳の声がする。「朝は晴れてたもの」「午後から雨って言ってましたよ」「知らなかった」「でしょうね」 淳が折り畳み傘を取り出した。「入ってください」「え?」「駅まで行くんでしょう?」「一緒に?」「嫌ならいいですけど」「嫌じゃない!」 思わず大きな声を出してしまった。淳が少し驚く。「……そんなに俺と一緒が嬉しいのですか?」「雨に濡れたくないだけよ」「はいはい」「その言い方やめて」 傘が開く。二人で入るには少し小さい。 歩き始めると、自然と肩が触れた。 近い。 とても。 嬉しい。 瑠理子は緊張して、まっすぐ前だけを見る。 けれど淳の方へ傘が傾いていないことに気づいた。「淳」「はい?」「あなた濡れてる」「これくらい平気です」「駄目よ」 傘の柄を持つ淳の手に、自分の手を重ねる。「もう少しそっち」「……お嬢様」「何?」「また近いです」 言われて気づく。ほとんど身体が密着していた。「……仕方ないでしょう。傘が小さいんだから」「そうですけど」 淳の声も少しぎこちない。二人とも黙った。 雨の音だけが響く。 不思議だった。
「淳……私のこと、好きなの?」 ぽろりと口から零れた。 ハッと気が付くと、淳は遠くにいた。 離れた場所まで歩いているから、今のつぶやきは聞こえていない。「……っ」 瑠理子は慌てて口元を押さえた。 淳が瑠理子をすきになってくれうそんな都合のいいことがあるはずがない。 前世では、自分ばかりが淳を追いかけていた。 彼の方から求めてもらった記憶なんて、ほとんどない。 それなのに今は、少し優しくされただけで期待してしまう。「駄目。仕事しなくちゃ」 熱くなった頬を両手で押さえ、瑠理子は無理やり資料へ視線を戻した。 だが、まったく頭に入らない。 売上高を見ても淳。 営業利益を見ても淳。 投資計画を読んでいても、さっき手を包まれた感触を思い出してしまう。「……全然だめだわ」 ため息をついた。 こんな調子では淳より先に真相を掴むどころか、経営の「け」の字も覚えられない。 それでも午後いっぱい資料と格闘し、気づけば窓の外はすっかり暗くなっていた。「あれ……?」 顔を上げると、周りの社員はずいぶん減っている。時計を見ると、もう七時を過ぎていた。「もうこんな時間?」 集中しすぎていたらしい。 慌てて資料を片づけようとしたところで、机の上に小さな紙袋が置かれた。「え?」「食べてください」 顔を上げると淳だった。「なにこれ?」「サンドイッチ」「見ればわかるわよ」「だったら聞かないでください」「そうじゃなくて、どうして?」 淳は呆れたように瑠理子を見る。「昼から何も食べてないでしょう」「…&hel
その日は、経営企画部で会社全体の事業について説明を受けた。午後になり、膨大な資料と格闘していた瑠理子は、早くも頭を抱えていた。 「……わからない」 売上高。 営業利益。 関連会社。 投資計画。 難しい話と数字が多すぎる。 花のことやお作法のことならわかるが、経営のことについてはあまり勉強をしてこなかったので、瑠理子にはさっぱりだった。「お嬢様」「なに?」 顔を上げると、向かいの席に淳が立っていた。「そこ、数字違いますよ」「え?」「前年度と今年度、逆に見てる」 見直すと、淳の指摘された通りだった。「どうしてわかるの?」「俺、一応経済学部ですから」 さらりと言われる。「大学生のくせに」「お嬢様も大学生でしょう」「……確かにそうだけど」「見せてください」 淳が隣の椅子を引いた。 瑠理子の横に座る。肩が触れそうな距離に、瑠理子の心臓が跳ねた。「ここ」 淳が資料を指差す。「売上だけ見ても駄目なんです。利益率も見ないと」「利益率?」「この会社の場合は――」 淳が説明を始めた。とてもわかりやすい。彼は思っていたよりずっと頭がいい。 前世でもそうだった。 淳は短期間で仕事を覚え、あっという間に海原グループの中枢へ入っていったから。 それが怖くて、海原グループから遠ざけたというのに。ここには入社しないでほしかった。「お嬢様?」「……」「聞いてます?」「聞いてる」「本当に?」「聞いてるわよ」「じゃあ今俺が言ったこと、言ってみてください」「えっ」 別のことを考えていたから、すぐには答えられない。 淳が呆れた顔をする。「全然聞いてないじゃないですか」「だって……」「だって?」 あなたの横顔を見ていたから――なんて言えるはずがない。 「理解できなかったの。あなたの説明が悪いからだわ。もう一回説明して」「ちゃんと聞いてくださいよ」「はいはい」「はい、は一回ですよ」「……意外とうるさいのね」「誰のせいですか」 そう言いながらも。 淳はもう一度、最初から丁寧に説明してくれた。 前世ではこんな時間は持てなかった。結婚する前の自分は、会社に興味などなかったから。 淳が何を学び、何を考え、どんな仕事をしていたのか、何も知らなかった。 今、人生をやり直せたおかげで、 彼の隣
数日後。瑠理子も海原グループへ出入りするようになった。 正式な社員としてではない。大学へ通いながら、時間のある日に各部署を回り、会社の仕組みを学ぶことになったのだ。 父の一郎からは「最初から経営者気取りになるな」と釘を刺され、まずは一般社員と同じ目線で会社を知るよう言われている。 瑠理子もそのつもりだった。前世の自分は、あまりにも知らなさすぎた。 父がどんな人間を信頼し、会社でどのような決定をしていたのか。 淳がどこから父を疑うようになったのか。そして、何が海原家を破滅へ導いたのか。 今度は自分の目で確かめる。 そう決意して本社へ入ったのだが――「……」 エントランスを抜けたところで、瑠理子の足が止まった。 少し離れた場所に、淳がいた。社員らしい男性と話をしている。 紺色のスーツを着て、手には資料を抱えていた。 家で見る大学生の淳とは、まるで違う。 まだ二十一歳だというのに、スーツ姿になると一気に大人びて見えた。(淳……すごく格好いい) 思わず見惚れてしまう。 前世でも、淳のスーツ姿が好きだった。仕事へ向かう前、ネクタイを締めている背中を眺めるのが好きだった。 それを見たくて、わざと頼まれてもいないのにネクタイを選び、曲がっていると言いがかりをつけて、直していた。『もういいよ』 呆れたように言いながらも、淳は嫌がらずにされるがままになっていた。そんな些細な記憶まで蘇る。 彼の笑顔が好きだった。 ずっと大事に大事に、初めて恋した人と結婚できたことも、なにもかもが幸せに満ちていた。「……お嬢様?」「!」 いつの間にか、淳が目の前まで来ていた。「なにをされているのですか?」「え?」
はっきりと自覚した。瑠理子はやはり、今でも淳を心の底から愛しているのだ、と。 前世ではうまくいかなかった。 確かに彼は、瑠理子が求めるように愛を返してくれなかったかもしれない。 それでも憎しみを飲み込みながらも、自分の傍にいてくれた。 愛を囁いてくれた。 決して自分からは求めてくれなかったが、理想の夫であろうと努力してくれた。 世間知らずだった小娘が、一途に淳だけを愛せたのは、彼の誠実さもあったのだろう。 今だからわかる。淳はとても純粋で、顔だけでなく、心まで美しい男なのだ、と。 それが、父や母の怪死のおかげで狂ってしまった。 本当に警戒しなくてはいけないのは――海原二郎。 なぜかはわからないが、彼に近づくと心が苦しくなる。 百合絵がそうだったように、彼ら親子には、秘めたる毒があるように思えてならない。(私はまた同じように淳を愛してしまう)(なんど転生しても、私が私である限り、きっとこの思いを消すことはできない) 瑠理子はキッと顔を上げた。 なら、守ろう。 愛する淳が、今度こそ幸せになるために。 だからこのまま、御堂直之との縁談を受け入れる。 これでいい。 海原グループのことを必死に勉強して、淳より先に真相を突き止め、彼が罪を犯したりしないように、先回りすればいい。 それには、直之の力は必要不可欠。(未来を変えられないことを恐れちゃだめ)(淳のことは、私が守る!) ※ 三日後。朝食の席で、淳がいつもより







